MBCドラマ「金首露」(3)王妃許黄玉

Pocket
LINEで送る

안녕하세요.

서서히 장마철로 접어 드는군요.저는 장마철하면 제일 힘든 게 머리스타일이었어요.곱슬머리라서 아침마다 드라이어로 셋팅을 해도 비가 오거나 또는 땀으로 인해 금방 엉망이 되거든요.하지만 다행스럽게도 올해는 미리 매직스트레이트를 해서 장마철이 안 무섭답니다.요즘 세상에는 좋은 것도 많고 편리한 것도 많아서 어디든지 단시간에 이동을 한다거나 또는 아무리 멀리 떨어져 있어도 화상전화로 이야기도 할 수 있죠.근데 말이죠..옛날에는 어땠을까요? 물론 말이나 배같은 이동수단이 있었겠지만 지금에 비하면 너무나도 열악한 교통수단으로 누군가를 만나러 간다는 것은 쉬운 일이 아니겠죠.오늘은 드라마 김수로왕의 3번 째 이야기,머나먼 이국에서 자기의 배필을 찾아 온 김수로왕의 부인 「허 황옥」에 대해서 소개해 드릴게요.

(そろそろ梅雨入りですね。私は梅雨のシーズンになると一番気になるのがなんと言っても髪型です。癖毛なので毎朝、ブローしても雨の日やまたは汗で髪型が崩れてしまいます。だけど今年は幸いにGWにした矯正で梅雨シーズンでももう怖くありません。本当に今日は良いものも多いし便利なものも多くていいですが、昔はどうだったのでしょうか。昔も馬や船と言う移動手段がありましたが、はるか遠いところから誰かに会いに行くのはそれほど簡単なことではなかったはず。今日はドラマ金首露の3回目の話、遠い異国からはるばると自分の配偶に訪ねてきた金首露の妻、「許黄玉:フォファンオッ」について紹介致します。)

3.金首露を訪ねてきた亡命人:「アユダ国の姫&普州太后許黄玉」

 金首露王の王妃、許黄玉は金首露王のような神話は持ってないが、彼女も先進文明人で渡来人であることが高い。金首露が伽耶の先住民の王として迎え入れられてから9干の族長は自分の娘と結婚させて権力を握ろうとしたはず。だが、金首露は「天が定めてくれた配偶者がいる」ときっぱりと断り、遥々彼を訪ねてきたインド「アユタ国」の姫、許黄玉(フォファンオッ)と結婚する。先住民の族長である9干のそれぞれとの結婚話や繋がりを拒否した首露王は、この時点で王位の安定や支配権の強化がすでに整っていたことを意味するかもしれない。

 天が定めてくれた首露王の配偶者で、インドから渡ってきた姫、許黄玉の渡来先については未だに色んな説がある。その中でもインドの「アユタ国」の姫でありながら普州太后許黄玉である説が一番有力だ。その説を紹介する。

 アユタ国(Ayodhya)はインドの東北部にあり、その東南部にはカヤ(Gaya)という小王国があってGayaの南側にはBuddh Gayaという国があった。

 Gayaの気候は、夏になると続く梅雨によってガンジス川が氾濫して大海に成し、また11月から4月までの6ヶ月間は日照りによって川の水がなくなる。この時期に逃げられなかった魚達は水を求めて水溜りに集まるが、その水溜りをインド語でカラ(加羅)と言うらしい。

水溜りを意味する加羅は米と魚で生きているGaya人達の生活においてなくてはならない命の象徴に匹敵するもので、カヤは国を象徴する模様として双魚文(向き合っているペアの活魚の模様)を使っていたと言う。これは後、金海の伽耶及び駕洛(カラッ)の国名と同じものでまた金首露夫妻の墓にも双魚文と似た模様や彫刻が見つかっているが、偶然の一致と言うには共通点が多すぎる。

インドガンジス川辺にあった昔の王国アユタ(Ayodhya)国のインド寺院の正門の必ず彫られている双魚文と金首露陵の正門に描かれている双魚。

 当時彼らは仏教を拝めており、長い間浸透している仏教の教えにより、インドに存在している身分制度に馴染みがなかった。①バラモン(ブラーマンとも)、②クシャトリヤ、③バイシャ、④シュードラのカースト制度(バルナ(四種姓))という厳しい身分制度に疑問や不満を感じていたGayaの王族はカースト制を廃止して万人平等を宣言した。しかし今までシュードラを扱き使い、富むを築いていた貴族達はそれに反発しGayaや釈迦を征伐して滅亡させようとした。

それに気づいたGaya人やバラモン、王族などはGayaを離れて北へと逃げ、シキム、ヒマラヤを通って南蛮(現中国の南部)へと亡命することになる。南蛮に亡命をしたGaya人達は普州(現四川省の安岳県)に住み着き、原住民と融合して生活をしてゆく。

そのなか、この地域を巡察していた前漢の官吏によって漢の元帝に連れて行かれた美貌のGaya人、王政君という女性がいた。彼女は後元帝の皇后になり、自分の姪である王莽を長安に呼び寄せて貧しい民の救済、改革などをして民から尊敬されることになり、またGaya人達の位置も一変した。だかそれも僅かな間。土地や権力を奪われた漢民族から恨まれ、Gaya人や彼らの指導者は再び、中国の武昌へ亡命することになった。

亡命する際、彼らを導いた指導者がいたが、「許:フォ」という氏族で司祭を担っているバラモンだった。「許」は当時バラモンが奉っている神殿(現在の仏教の前身)の巫師の呼び名で、バラモン許氏には妹がいた。彼女は後、伽耶の金首露王と国際結婚をする「アユタ国&普州太后」許黄玉である。

彼女が金海へ渡来した時期は1世紀頃だが「後漢書」には当時の歴史が次のように記されている。

光武帝 建武23年(西暦47年)に南郡にて許聖らの反乱があり、彼らを武昌へ移住、また再び和帝 永元13年(西暦101)年に武昌にて彼らの反乱があったので討伐して江夏へ移住させた。

ここで気になるのは「許聖」という氏族だが、これは氏名ではなく世襲される巫師の官職名だったと言う。当時の巫師は社会で尊敬を受ける職業で司祭だったし、当時の政治的な問題に巻き込まれて他地方へ移住させられた可能性が高い。

彼らの反乱が起こった南郡からは普州までとても近いし、普州に生活していた許氏族へと何らかの被害があって他地方へ移住もしくは亡命せざるを得ない状況にあったと考えられる。またその一族の中に10代半ばの女の子がいて亡命中に陽子江から黄海へ、伽耶へ行き着いたこともあり得るだろう。

3回目終わり。

クリスタルでした。

Pocket
LINEで送る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください