サッカーワールドカップ2010の燃える夏2

準々決勝でドイツは4:0でアルゼンチンを圧勝しました。この誰も予想しなかった結果はあまりにも衝撃で、まるで夢のようでした。アルゼンチンに涙を、ドイツに喝采を与えました。

「ドイツの若者の覇気はアルゼンチンの名選手の誉れを勝った」とか、「団体主義は個人英雄主義を勝った」とか「ヨアキム・レーウ監督はマラドーナを勝った」など様々な言い方があります。

私は一番感銘したのはヨアキム・レーウ監督の話です。「試合の成績や、ランキングなど、我々のするサッカーの唯一の基準ではないです。我々がどんな態度で、どんな目標で、どのようにサッカーすることを重んじます。」

その主旨により、2000年以降、ドイツサッカー協会は草ね運動を展開し始めました。毎年2000万ユーロを費やし、全国の366箇所のサッカークラブや学校に、コーチを派遣し、14000名の11~14才の少年を訓練したそうです。この措置により、ドイツ全体のサッカー選手のレベルをUPしました。

草根運動は正にサッカー代表のパワーの源です。ドイツはしました。2010ワールドカップの優勝の希望を与えてくれます。日本と韓国はしました。8強に入らなかったですが、世界に感動を与えてくれました。中国は何時草根運動を展開しますか?

急に心が痛くなりました。

サッカーワールドカップ2010の燃える夏1

ワールドカップの熱戦によって、サポーターだけではなく、普段サッカーをあまり見ない私たちも熱くなりました。テレビの前に釘付きで、南アフリカの青空の下で、選手の素晴らしい球技、サポーターの熱狂な姿、がっかりした姿に惹かれています。嬉しい涙、哀しい涙、悔しい涙が溢れる南アフリカは今世界の中心になり、この夏は、ワールドカップによって、燃えています。

ワールドカップ直前の試合が、サッカー日本代表は全敗でした。日本国民をがっかりさせた侍ジャパンは、南アフリカに着いて、変身したように決勝トーナメントまで進出しました。岡田監督の話によると、それは失敗に思い詰めて、背水の陣の気持ちで戦った結果です。正に、中国語で「置于死地而后生」(死地に陥れて後生く、絶体絶命の窮地に陥れ、決死の覚悟をもたせてから戦ってはじめて、活路を見いだすことができるということ)の侍ジャパン版です。しかし、なかなかワールドカップに出場ができないサッカー中国代表はその言葉を忘れているようです。

また、韓国代表は必死に頑張りましたが、8強に入れなくて、選手達は涙を流しながら、サポーターに謝罪しました。それを見て、私は急に悲しく思いました。中国のサッカー選手は高収入なのに、彼らに関わるスキャンダルを絶えず、サポーターの期待の大きいなのに、いつも負腰です。それにも拘らず、中国のサポーターはずっと中国サッカーチームを愛しています。しかし、中国サッカーチームは負けても、選手達は言い訳ばかりして、サポーターに詫びる言葉は一言もなかったです。

今年こそ、中国のサッカーチームは日本代表と韓国代表の素晴らしいプレーとサポーターを大事にする姿を見て、いい手本を見習い、「置于死地而后生」の覚悟を心に刻み、サッカーに対する情熱で目が覚めて、ワールドカップの会場で、サッカー中国代表は堂々と戦う日が早く来ますように。

願いを星に。

「孤高のメス」の暖かい繋がり

先日、堤真一のファンの私は話題作の映画「孤高のメス」を見ました。タイトルはクールな感じですが、実はとても暖かいラブストーリを語り、深い感動を呼び起こしました。

以下、あらすじを書いているので、まだ見ていない人は注意してください!

地方都市の医者の誤診により、お母さんを亡くしたことを契機に、当麻先生は地方医療に献身する医者になろうという夢を持ち始めました。その夢をずっと、当麻先生の心に留め、「目の前の患者さんだけを救いたい」という強い信念で、命をたくさん救いました。彼の立派な姿、純一の目に感動されて、まともな外科手術さえできなかった地方都市の市民病院は変化を起こしました。医者のメンズより、世俗のタブーより、患者さんの命を大事にするようになりました。

交通事故で脳死の少年の肝臓は肝硬変で危篤な市長の体に移植し、生前人助け好きの少年の情熱は市長と繋がり、障害者のため、立派な福祉館を建てました。脳死の少年のお母さんは市立福祉館で勤め、息子さんとの繋がりを感じています。

当麻先生と一緒にオペをした看護婦さんの死後、息子さんはお母さんの日記を読んで、お母さんの気持ちが分かり、東京の医師の仕事を辞め、地方医療に献身しようと決意しました。

赴任先で、院長は元の当麻先生だと分かった途端、息子さんは微笑みました。最後のシーンはとても暖かく感じました。

映画館で、音楽が流れ初め、私は中国の似た実話を思い出しました。40代の息子さんは70代お母さんに腎臓移植をしました。この親子の愛は中国全土で賞賛され、感動されました。

出会いと別れを繰り返す中、どんなに愛し合い、信頼しあった親子でも、夫婦でも、いずれどちらか先たち、分かれなければ、なりません。人間とは哀しいものだと思い、人生は残酷だと思いますが、この映画は、人と人は別れても、繋がりがあり、ぬくもりがあり、希望を与えてくれます。

お勧めです。

はじめての中国旅行

スクールスタッフに中国旅行記を書いてもらいました。

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今回は、僕が中国に留学するきっかけとなった中国旅行について書いてみます。きっとこの旅行がなければ、僕自身中国に留学することはなかったと思います。ちょっと風変わりな旅行ですが、僕が中国好きになったきっかけです。

2004年当時の話ですが、サラリーマンとして日経新聞を読んだり、テレビを見たりしていると、毎日中国の情報が流れていました。テレビによれば、中国人はとんでもない非常識なやつらで、社会は好景気で、経済はバブルとなっているということでした。

ともかく時代の流れは中国となっている。僕自身、海外に住んでみたいと漠然と思っていたりもしましたし、またそんなイケイケの社会や経済を見てみたいとも漠然と思っていました。しかし英語が大の苦手で、他の国の言葉なんて喋れる訳がないと思っていましたし、海外に住むなんてすごいことだと思っていました。

漠然と海外行きたいなーと思いつつも、まあ無理だろうな、と思ったりして結局何も行動していませんでした。

そんなある日、会社から有給休暇が2週間たまっていると言われ、まだ海外に行ってみたことがないし、この先働いていたらなかなか長期の休みは取りづらいし、この機会に中国に行ってみようと反射的に思いました。

当時中国は、反日運動などがようやく治まってきた時で、飛行機は空いていて、チケットは直前でも取れ、1週間ほど北京IN上海OUTのチケットを取りました。お金は10万ほど持っていった記憶があります。持ち物は服と旅の指差し会話帳で、最初の一泊は、楽天トラベルで一泊1000円ぐらいのホテルを取りました。

飛行機の中では胸が躍り、楽しみで仕方がありませんでした。着く直前飛行機から見た初めて見た海外の景色は感動そのもので今でも覚えています。あーここが海外なんだ。遂に中国来たんだ。気分が高まりました。

午後8時過ぎに空港に降り立ち、右も左も分からぬまま、飛行場についたとたんびっくりしました。黒タクなのか分からないですが、金をもってなさそうなおっさんたちが大人数でまくし立てるように話しかけてきました。たぶんどこいくんだ?こっちに乗っていけ、そんなことを言っているみたいでした。

言葉も話せないのにこんなものに載ったら確実にぼられると思い、彼らを強引に振り払い、バス乗り場に行きました。ただバス乗り場についても、どのバスに乗ったら自分の宿につくのか分からず、旅の指差し会話帳で会話をしたり、住所を見せたりして、なんとかバスに乗りました。

結構楽勝や、とか思いながら、終点のバス停でおり宿を探したのですが見当たらない・・・、時間も9時を過ぎていて、これはまずいんじゃないかと思って、いろんな人に聞きまくりました。みんな親切に色々教えてくれて、何とか見当がついたかなと思ったら、ひどくのどが渇いていることに気がつきました。とりあえず何か買って飲もうと思ったので、コンビニっぽいところに入り、ペットボトルの飲み物を探していると、何とキリンの生茶がある。それをもってレジに行き、お金を払い(コンビニだと値段が書いてあるので楽勝です!)飲んだら・・・何と、激マズ!!砂糖が入っているじゃないですか!

お茶はまずいかったものの、のどが渇いていたので、これを飲んでさらに人に聞きまくって何とか宿に着きました。宿に着いたときは午前2時過ぎで、着いた瞬間泣きそうになりました。ちなみに宿の人も心配していたみたいで、とても親切にしてくれました。全然話せない僕に、いろいろな人が本当に親切にしてくれて、中国人の印象が一日で変わった一日でした。

深夜2時以降に宿に着いたにもかかわらず、海外の興奮からか、朝の6時に目が覚めてしまいました。

普段ならそのままダラダラ寝ているのですが、初めての海外ということもあり一分一秒も無駄にしたくないため、朝から散歩をすることにしました。安宿から五分ぐらい歩いたところに広場があり、昨日何もなかったところに大規模な朝市が開かれていました。ものすごい人です。

面白くて中に入ってみていると生活用品等を売っています。呼び込みも激しくて、「買って行け」みたいな感じで色々と話しかけられます。食べ物が売っている所があったので、朝食がてら肉まんとお粥みたいなのを買って食べてみました。確か値段は50円ぐらいだったような気がします。屋台の席に座り、肉まんみたいなのを食べたらびっくり、何と肉が入っていない、肉まんのまんだけのものでした。味がないのでまずかったです。お粥はピータンが入っていて鶏がら?の出汁みたいなのがきいていたので、そこそこ美味しかったと思います。

その屋台でも色んな人に話しかけられましたが、旅の指差し会話帳でちょっと話をするぐらいしかできず、その後、街を見たり、地下鉄乗ったり、人間ウォッチングをしたりと、見るもの全てが珍しく、全く飽きることがなかったです。

食事のためにお店に入ってメニューを見てもさっぱり分からなく、適当に注文してしまいました。僕が持っている旅の指差し帳をみて、店員も集まってきてなにやら話掛けてくるのですが、もちろん簡単な会話しかできません。どっからきたんだ?とか、日本から北京までどれくらい時間が掛かるんだ?とか、中国はどうだ?などなど。この指差し会話帳があったおかげで、客も店員も集まってきて、いろんなことを聞いてきます。こちらも筆談などで対応しますが、正直面白く、会話の内容もたわいのないものなのですが、国も文化も違う人間同士が話すのは本当に面白いと感じました。

そんなことをしながら、アジア圏最高峰の北京大学に行きました。学内では、めがねを掛けている人がやたら多く、静かであまり中国ぽくない気がして、真面目そうな学生ばかりで、街中とは全く違う雰囲気です。服装は地味で趣味は勉強みたいな人が集まっている感じ、一日大学にいたが勉強して食事をしてまた勉強してという感じでした。

その後、北京~上海の列車のチケットを買いにいきました。正直、今回の旅の最大の難関です。広大な北京駅のどこに切符が売っていて、無事に行けるのかが不安でした。よく中国の大都市の駅周辺は治安が悪いというのですが、乞食の数が半端ではありません。僕を見てすぐに外国人と分かるみたいなので、子供にしがみつかれたりしました。

中国の切符売り場がまた半端なく混んでいて、行列もあってないようなもので、とにかく早いものがちで人をかき分けて窓口までたどり着きます。中国の長距離列車の座席は硬座(板の席)、軟座(少し高級な、クッションのある席)、硬卧(狭い三段ベット)、軟卧(そこそこ広いベット)に分かれます。上海まで12時間もかかるということもあり、出来れば座席だけは避けたかったので、上海と軟卧を連呼していたら何とか切符を買うことができました。

何とか無事に上海に行く電車にも乗れ、そこでも中国人に話しかけられたりして、旅の指差し会話帳が活躍しました。本当にこの国の人は人懐っこく、みんな良い人に感じられました。また、中国語が満足に話せない自分がもどかしく、中国語を勉強してもっと会話がしたいと思うようになってきました。

早朝、上海につき、上海駅と書いてある駅の看板を見て、上海に着いたという実感がわきました。上海について早々に朝食を食べたのですが、肉マンがウマイ!!思わず何個も食べてしまいました。何泊かして中国の朝食を食べたのですが、一番美味しいのがケンタッキーのおかゆです。150円ぐらいしてしまいますが日本人の口に合います。美味しいです!

上海についてやはり感じたのは、発展していることです。近代的なビルが立ち並び、やはり都会だと感じました。しかし近代的なビルの横にすごい汚いビルがあったりと、部分的に発展してきているんだと感じました。

ホテルでは英語が話せる子がフロントをやっており、その子が非番のときにご飯を食べに行ったりと何かと暇をつぶすことが出来ました。また、足ツボマッサージに行ったりして、時間をつぶしていました。みんな無邪気に話しかけてくるので色々と話をしてみたかったのですが、話せない自分が悔しかったです。中国人はりんごをかじっていますが、みんな基本丸かじりです。また、よく言われることですが中国人はあまり並びません。そんなとこが新鮮でガンガン割り込みしました。

あっという間に10日ぐらいが過ぎてしまい、名残惜しいながらも中国を去りました。またきっと来るだろう。間違いなくそんな予感がしたし、中国に住んでどっぷりつかってみたいと思いました。この中国旅行は正直自分の人生を変えていったといっても過言ではありません。すごく楽しかったです。