中国茶的历史(中国茶の歴史)

中国茶的历史

中国茶是生长在中国云南省,四川省,贵州省周边的植物。茶的历史是从公元前2700年左右的传说开始的。茶最初是作为药来服用的,后来作为饮料开始饮用,到唐代时候,在全国范围内普及开来。

中国茶の歴史

中国茶は中国の雲南省・四川省・貴州省周辺に生えていた植物。お茶の歴史は紀元前2700年頃の伝説から始まる。茶は最初は薬として飲まれていたが、その後は飲み物として広がり始め、唐代には全国規模に広がった。

那个时候被放在茶臼里碾碎成粉末状的“粉末茶”是主要的饮用方式。在唐代,由于出现了陆羽(被称为“茶仙”),所以茶不单纯是饮料,而且对学艺术等方面都产生了巨大的影响。

この頃のお茶は臼などで挽いた粉状「末茶」のお茶が主流。また唐代に陸羽(「お茶の仙人」と呼ばれる)が誕生したことで、お茶が単なる日常的な飲み物としてではなく文学や芸術の側面でも大きく発展していくこととなった。

宋代制茶技术没有什么很大的进步,但在艺术方面,书画、诗集、茶具等却流传后世。到了明代,进贡给太宗皇帝的茶叶代替了以前的粉末茶,茶叶很快成了饮茶的主流。随着这种变化,泡茶的方法呀茶具的形状用途等都发生了很大的变化。

宋代には製茶技術が急激な進歩をなし、芸術面でも書画詩、茶器等が後世に残された。明代に入ると太宗が献上させるお茶をこれまでの末茶から散茶(芽茶)に替えさせたことで茶葉の主流が急転換した。この変化に伴いお茶の淹れ方や茶器の形状、用途も大きく変化。

到了清代,茶叶出口达到了高峰,这是中国茶的发展史上的全盛时期。但是,这也成为了导致鸦片战争发生的主要原因。随后茶园、生产基地等都受到了极大的打击直至荒废。中华人民共和国建国以后,政府鼓励重新栽培茶叶,各地出产了各种各样的名茶。

更に清代に入ると茶葉の輸出もピークとなり、中国茶の発展史上最全盛期となった。しかしそれが結果的にアヘン戦争を生む要因となり、茶園や生産基点に大きな打撃を与え荒廃させてしまう。中華人民共和国建国以後は再び政府によってお茶の栽培が奨励され、各地で様々な銘茶が生まれている。

中国历史上,茶最早出现在古代传说中的炎帝神农氏。从这个传说可以看到,在中国发现茶是在公元前2700年左右的神农时代。

中国の歴史の中でお茶が最初に出てくるのは古代伝説の中に出てくる炎帝神農氏。この伝説から中国ではお茶の発見は紀元前2700年頃の神農時代だと見られてる。

神农氏是传说中的三皇(伏羲氏,神农氏,黄帝)之一,由于神农氏发明了用火烧制食物的方法,所以他又被称为“炎帝”。《神农本草经》中记载:“神农尝百草,日遇七十二毒,得荼而解之。”这个就是神农首先发现茶(荼=茶)的根据。

神農氏はこの伝説の中に出てくる三皇(伏羲氏、神農氏、黄帝)の一人で、神農氏は火を用いて食物を取ることを発明したために「炎帝」と呼ばれた。「神農本草経」には「神農氏は百草を味わって、一日七十二種類の毒に遭遇したけれど、荼を得て、毒を消した。」と記載されており、これは神農が初めに荼(=茶)を発見したと言われる根拠になっている。

有关饮茶的方法,最早的文字记载是在《广雅》中。到了汉代,四川的王褒写的《僮约》中,有“烹荼尽具”“武当买荼”的记载,说明了当时已经有饮茶的习惯和买卖茶的活动了。这部《僮约》也是现阶段有关茶具记载的最早文献。

お茶の飲み方を文字に記したのは現在「広雅」が最も古い文献とされていて、漢代になると四川の王褒が記した「僮約」の中に「烹荼盡具」、「武當買荼」という記載があり、ここから当時既にお茶が飲まれていてその売買があったことがわかる。またこの「僮約」が現段階では茶具に関する最初の文献だと言われている。

从三国时期,张揖的《广雅》记载中,我们可以知道,茶首先要碾,然后煮,再放入葱、生姜、蜜橘的皮,最后饮用。从东晋时期的传说故事中我们可以看出,茶已经在社会、文化方面发挥了各种各样的作用。以后,茶伴随着历史的发展,不仅仅是解渴的饮料,还成为了人们生活、习惯、文化、精神、艺术等方面不可缺少的一部分。

三国時代になると張揖の「広雅」からお茶はまず挽いて、煮出し、葱や生姜、蜜柑の皮などを入れたということがわかり、東晋代に入ると当時の物語から、お茶が既に社会的、文化的に様々な役割を果たしていること。以後お茶の存在は歴史と共に単に渇きを癒すだけのものではなく人々の生活習慣、文化、精神、芸術面に欠かせないものへと発展していった。

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