中国古代学校の名称の変遷

中国在4000多年前就有了学校。那时学校的名字叫“痒”。高一级的大学叫“上痒”,低一级的小学叫“下痒”。到了夏朝(公元前21世纪——公元前16世纪)把学校又分成了四个等级,按级别叫做:“学”、“东序”、“西序”、“校”。
中国では、四千年前から学校があった。当時の学校の名前は「痒」と言った。レベルが高い大学は「上痒」と言って、レベルが低い小学は「下痒」と言った。夏朝(紀元前21世紀~紀元前16世紀)に至ると、学校は等級によって、「学」、「東序」、「西序」、「校」と四つの等級に分けられた。

到商朝(公元前16世纪——公元前1066年)时,又把这四种学校的名字改为:“学”、“右学”、“左学”、“序”。
商朝(紀元前16世紀~紀元前1066年)の時、またこの四種類の学校名を「学」、「右学」、「左学」、「序」と変えた。

后来的朝代还有在王府里设立的学校,叫“辟雍”、“成均”等。
その後、王朝の中に設けられた学校もあった。名前は「辟雍」、「成均」などがあった。

到汉代(公元206年——公元23年),最高一级的学校称做“太学”,下面分别称做“东学”“西学”“南学”“北学”。再后来把“太学”改为“国子学”,“国子寺”,“国子监”。汉代,是中国古代教育史上一个比较昌盛的时期。汉代的学校分为官学与私学两种。其中私学的书馆,亦称蒙学,系私塾性质,相当于小学程度。
漢の時代(紀元前206年~西暦23年)に至ると、最高レベルの学校は「太学」、次は「東学」、「西学」、「南学」、「北学」と呼ばれた。その後、「太学」を「国子学」、「国子寺」、「国子監」等と変えた。漢の時代は中国古代教育史上では比較的に盛んでいた時代だ。漢の時代の学校は官学と私学に分けられた。その中私学の書館は、又蒙学とも呼ばれた、それは私塾の性質を持って、小学校程度に相当した。

到离现在最近的明朝(公元1368年——公元1644年)、清朝(公元1644年——公元1911年),“国子监”已经不是学校的性质了,成为国家专门管理教育的机构。而这时候一般的学校称为“书院”、“书堂”、“私塾”等。
今まで最も近い時代明朝(西暦1368年~西暦1644年)、清朝(西暦1644年~西暦1911年)に至ると、「国子監」は既に学校の性質がなくなった、国家の教育を管理する専門機関になった。当時、一般の学校は「書院」、「書堂」、「私塾」等と呼ばれた。

光绪二十九年,清政府颁布《奏定学堂章程》,不但明确了整个学校教育制度,还规定了各级学校的课程。《奏定学堂章程》里公布的小学课程是我国第一套正式的小学课程。
光緒二十九年、清政府から「奏定学堂規定」を発布した。全ての学校教育の制度を明確した上で、各級学校のカリキュラムを規定した。「奏定学堂規定」で定められた小学校のカリキュラムは我が国の初めての正式的のカリキュラムであった。

注:中文部分摘自:中国文化网/中国概况/教育的历史;日文部分独自翻译。

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