比黄金更昂贵的是眼光
1974年,美国政府决定向社会招标,来清理翻新自由女神像后所扔下的废料。但几个月过去了,没有一个人愿意理睬那堆垃圾似的废料。正远在法国旅行的麦考尔听说后,立即飞往纽约,匆匆看过自由女神像下堆积如山的废铜块、螺丝和木料后,果断地在招标书上签了字。
对他的这一“傻瓜”壮举,纽约许多运输公司嘲笑不已,因为在纽约州,垃圾的处理有很严厉的规定,稍有不慎,就会被虎视眈眈的环保组织起诉,一旦惹上环保组织,那漏子可就捅大了。
就在许多人幸灾乐祸地等待这个傻瓜落荒而逃时,他开始组织工人对废料进行仔细的分类。他把那些废铜熔化掉,铸成微型自由女神像;把木头加工成微型自由女神像的精巧底座;废铅、废铝做成纽约广场的钥匙;最后,他甚至把从自由女神像身上扫下的灰尘都包装起来,出售给纽约的各个花店。不到3个月的时间,经过他的手,这堆无人问津的垃圾废料奇迹般地变成了350万美元现金,每0.5千克铜的价格整整翻了一万倍。
废铜是可以变成黄金的,只需要我们换一种思路和眼光。致富的秘诀就是如此简单。
摘自《巨人网—作文网》2008-11-11 13
生词:
招标:入札募集。 螺丝luó sī:ねじ。
虎视眈眈hǔ shì dān dān:虎視眈々。すきがあればつけ入ろうと機会をうかがうさま。
惹rě:(良くない事柄を)引き起こす。 捅漏子tǒng lòu zi:面倒なことを引き起こす。
幸灾乐祸xìng zāi lè huò:他人の災難を見て喜ぶ。他人の不幸を願う。
铸zhù:鋳る。 铝lǚ:アルミ。
捐一个微笑
作者:蔡成
队伍很长。站在我前面的是母女俩,母亲牵着女儿的手,女儿仰起小脑袋奶声奶气地背着唐诗,背完一首就向母亲讨表扬。年轻的母亲不吝啬,反复竖大拇指,鼓励女儿再接再厉。
捐款台上的“设施”很简陋。一张桌子上摆了个用红纸包裹着的募捐箱,纸上有字:“向地中海贫血儿童献爱心。”站在我前面年轻母亲捐完了款准备走,守在捐款箱旁的一个中学生模样的姑娘似乎被可爱的还在背唐诗的小女孩吸引住了,拉住她的手,逗她:“小妹妹,妈妈给患病的哥哥姐姐捐钱了,你捐点什么呀?”
小女孩不做声,抬头看看她妈妈,又看看弯腰跟她说话的姐姐,手在口袋里掏了几下,什么也没掏出,嘴一撅,竟哭起来了。原本只想逗逗孩子的姑娘慌了神,脸涨得通红。显然,她自己也只是个大孩子,面对意外,乱了分寸。她惟有尴尬地站着,满脸歉意地看着小女孩的母亲。
年轻的妈妈却没慌,边给孩子擦眼泪边说:“洋洋,你给姐姐笑一个,你说你就捐一个甜甜的笑给患病的哥哥姐姐。”
小女孩真的立刻笑了,泪水还挂在她的眼角,她还在抽泣着,那笑也显得特别扭。别扭得让旁边的我,也差点忍不住乐出声来。
母女俩已经朝前走去,我往募捐箱里放着钞票,目光还在追随她俩。那个漂亮的小女孩又回过头,一次,两次,三次,每一次脸上都带着甜甜的笑。我数得一清二楚,她一共捐了六个天使一般的笑。
摘自《潇湘晨报》2005年4月2日
生词:
队伍duì wǔ:行列。 牵qiān:(手を)つなぐ。
脑袋nǎo dài:頭。 奶声奶气:子供のような鼻にかかった甘え声。
背bèi:暗誦する。 讨tǎo:要求する。
吝啬lìn sè:けちなことをする。 再接再厉zài jiē zài lì:なおいっそう励む。
捐款juān kuǎn : 金を寄付する。 简陋jiǎn lòu:粗末である。
逗dòu:(子供を)あやす。からかう。 做声:声を立てる。声を出す。
掏tāo:手を突っ込んで取り出す。 撅juē:(口を)とがらす。
慌了神:あわてて顔色が変わる。 分寸:程合い。
惟wéi:ただ。 尴尬gān gǎ:気まずい。
抽泣chōu qì:すすり泣く。 差点:もう少しで。
别扭biè niu:ここでは面白い顔をしているの意味だ。
忍不住:こらえられない。 钞票chāo piào:紙幣。札。
豆腐的来历
“中国是豆腐的‘师傅之国’”,“豆腐丰富了人们的营养,这是对人类的一个伟大的贡献”。提起中国的豆腐来,日本人总是怀着敬佩的心情竭力赞扬。1963年,中国佛教协会代表团到日本奈良参加鉴真和尚逝世1200周年纪念活动。当时,日本许多从事豆制品业的头面人物也参加了。据说,他们之所以参加纪念活动,是为了感谢鉴真东渡时把豆腐的制法带到日本。引人注目的是,这些参加者手里都提着装满各种豆制品的布袋,布袋上还写着“唐传豆腐干,淮南堂制”字样。
「中国は豆腐の師匠の国だ」、「豆腐は人類の栄養を豊富にした、人類に偉大な貢献をした」。中国の豆腐といえば、日本人はいつも敬服な気持ちを持って極力に賞賛した。1963年、中国佛教協会代表団は日本奈良で鑑真和上誕生1200週年の記念活動に参加した。当時、日本ではたくさん豆腐製品に従事した知名人達も参加した。注目したのは、これらの参加者は豆腐製品を積めた布袋を手に提げていた、布袋には「唐伝干し豆腐、淮南堂制」という文字が書かれた。
淮南堂是中国淮南一家豆腐坊的名字,原是为了纪念豆腐的发明人——汉代淮南王刘安而起的。堂堂淮南王怎么会发明豆腐呢?原来刘安讲求黄老之术,在淮南朝夕修炼。陪伴他的僧道,常年吃素,为了改善生活,就悉心研制出了鲜美的豆腐,并把他献给刘安享用。刘安一尝,果然好吃,下令大量制作。这样,豆腐的发明权就记在淮南王刘安的名下了。传说刘安后来在八公山“升天”,山上修建了淮南王刘安庙,“八公山豆腐”也因此名扬天下。
淮南堂は中国淮南一つの豆腐屋の名前で、豆腐の発明者—漢代淮南王劉安を記念するために作られた。れっきとした淮南王はなぜ豆腐の発明をしたの?それは劉安が道教を信仰したため、常に淮南で修行した。彼と伴った弟子達も、年中精進料理を食べた、食生活を改善するために、心を集中しておいしい豆腐を作り出した。劉安にも差し上げた。劉安は食べたら、確かにおいしかった。そして、大量製作と命令を下した。そうなると、豆腐の発明権は淮南王劉安に属した。伝説によると、その後劉安は八公山で「昇天」した。山の上で淮南王劉安のお寺が建てられた。「八公山豆腐」の名を天下に広げた。
中文摘自:中国文化网的美食、美食文化、美食文学
日文独自翻译。
大家好,今天我们来学习两个成语。日语也有意思相近的说法,一起
zì shí qí lì
自食其力: 腕一本脛一本(うでいっぽんすねいっぽん)
解釈:自分の体以外に頼みとするもののないこと。
例句:那个人的父母死得早,他从小就自食其力的生活。
(あの人は両親が早く亡くなったので、小さい時から腕一本脛一本で世を暮らしてきたんだよ。)
duì niú tán qín
对牛弹琴: 馬の耳に念仏(うまのみみにねんぶつ)
解釈:馬が念仏などを聞いても、少しもありがたく感じない。何を言っても分からず、いっこうに効き目がないこと。
例句:对他忠告,就是对牛弹琴。
(彼に忠告したところで、馬の耳に念仏だよ。)
こんにちは、大阪校の安安です。
今日は中、日意味が同じな諺を三つ紹介しましょう!
yuǎn qīn bù rú jìn lín
1.远亲不如近邻:遠い親戚より近くの他人
例句:俗话说:“远亲不如近邻”。大家都是邻居,有什么困难,别客气,尽管说。
(よく言われるように「遠い親戚より近くの他人」です。我々は隣さんだから、何かあれば、遠慮なく、言ってください。)
zhī rén zhī miàn bù zhī xīn
2.知人知面不知心:人は見かけによらぬもの
jìn zhū zhě chì jìn mò zhě hēi
例句:我的一位同事,过年前回老家,借了我的钱,然后就一去不复返了。真是知人知面不知心哪!
(同僚は正月故郷に帰る前、私のお金を借りた、しかし、その後再び帰らなかった。まさか、人は見かけによらぬものだ。)
jìn zhū zhě chì jìn mò zhě hēi
3.近朱者赤,近墨者黑:朱に交われば赤くなる
例句:俗话说:“近朱者赤”,和你这样文雅的人成为朋友以后,我感觉自己也变得文雅了。
(よく言われるように、「朱に交われば赤くなる」。あなたのような上品な人と友達になって以来、私も上品になった気がしました。)
中国在4000多年前就有了学校。那时学校的名字叫“痒”。高一级的大学叫“上痒”,低一级的小学叫“下痒”。到了夏朝(公元前21世纪——公元前16世纪)把学校又分成了四个等级,按级别叫做:“学”、“东序”、“西序”、“校”。
中国では、四千年前から学校があった。当時の学校の名前は「痒」と言った。レベルが高い大学は「上痒」と言って、レベルが低い小学は「下痒」と言った。夏朝(紀元前21世紀~紀元前16世紀)に至ると、学校は等級によって、「学」、「東序」、「西序」、「校」と四つの等級に分けられた。
到商朝(公元前16世纪——公元前1066年)时,又把这四种学校的名字改为:“学”、“右学”、“左学”、“序”。
商朝(紀元前16世紀~紀元前1066年)の時、またこの四種類の学校名を「学」、「右学」、「左学」、「序」と変えた。
后来的朝代还有在王府里设立的学校,叫“辟雍”、“成均”等。
その後、王朝の中に設けられた学校もあった。名前は「辟雍」、「成均」などがあった。
到汉代(公元206年——公元23年),最高一级的学校称做“太学”,下面分别称做“东学”“西学”“南学”“北学”。再后来把“太学”改为“国子学”,“国子寺”,“国子监”。汉代,是中国古代教育史上一个比较昌盛的时期。汉代的学校分为官学与私学两种。其中私学的书馆,亦称蒙学,系私塾性质,相当于小学程度。
漢の時代(紀元前206年~西暦23年)に至ると、最高レベルの学校は「太学」、次は「東学」、「西学」、「南学」、「北学」と呼ばれた。その後、「太学」を「国子学」、「国子寺」、「国子監」等と変えた。漢の時代は中国古代教育史上では比較的に盛んでいた時代だ。漢の時代の学校は官学と私学に分けられた。その中私学の書館は、又蒙学とも呼ばれた、それは私塾の性質を持って、小学校程度に相当した。
到离现在最近的明朝(公元1368年——公元1644年)、清朝(公元1644年——公元1911年),“国子监”已经不是学校的性质了,成为国家专门管理教育的机构。而这时候一般的学校称为“书院”、“书堂”、“私塾”等。
今まで最も近い時代明朝(西暦1368年~西暦1644年)、清朝(西暦1644年~西暦1911年)に至ると、「国子監」は既に学校の性質がなくなった、国家の教育を管理する専門機関になった。当時、一般の学校は「書院」、「書堂」、「私塾」等と呼ばれた。
光绪二十九年,清政府颁布《奏定学堂章程》,不但明确了整个学校教育制度,还规定了各级学校的课程。《奏定学堂章程》里公布的小学课程是我国第一套正式的小学课程。
光緒二十九年、清政府から「奏定学堂規定」を発布した。全ての学校教育の制度を明確した上で、各級学校のカリキュラムを規定した。「奏定学堂規定」で定められた小学校のカリキュラムは我が国の初めての正式的のカリキュラムであった。
注:
中文部分摘自:中国文化网/中国概况/教育的历史;日文部分独自翻译。